南海トラフ地震臨時情報
発生が懸念される南海トラフ沿いで発生する地震は、古文書などで発生履歴を確認することができる世界で最も素性が知れた地震だと言われています。このため、駿河湾周辺で発生する東海地震に関しては、直前の予知を前提とした地震対策が行われていました。ですが、近年、現代の科学の実力では正確な予知を行うことは困難との見解が示され、普段とは異なる異常な現象が観測された場合には、気象庁が南海トラフ地震臨時情報を発表することになりました。そして、2019年5月に「南海トラフ地震防災対策推進基本計画」が臨時情報の発表を踏まえた計画に変更されました。
臨時情報(巨大地震警戒)
南海トラフ沿いで発生した過去の地震を見ると、震源域全体が同時に破壊することもあれば、東西に分かれて2つの地震が続発することもあり、その発生の仕方は多様です。ですが、震源域の約半分の領域で地震が発生した場合(いわゆる半割れ)には、多くの場合、残りの震源域で数年以内に地震が発生しています。そこで、プレート境界上でM8.0以上の地震が発生した場合には、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震警戒)を発表し、1週間にわたって特別な対応をする方針が国から示されました。臨時情報には、巨大地震警戒に加え、巨大地震注意、調査中、調査終了の4種類があり、さらに南海トラフ地震関連解説情報もあります。臨時情報発表時の対応の方向性については、2019年3月に内閣府防災担当から「南海トラフ地震の多様な発生形態に備えた防災対応検討ガイドライン(第1版)」が示されています。
事前避難対象地域
ガイドラインでは、津波到達時間が短く、地震発生後の避難では津波から命を守ることが困難な地域を、地方自治体が事前避難対象地域として指定し、2019年度末までに臨時情報発表時の対応の仕方について、地域防災計画に加えることが求められています。事前避難対象地域には全住民の避難を促す住民事前避難対象地域と、避難に時間を要する人を対象にした高齢者等事前避難対象地域があります。ガイドラインでは、浸水深が30cm以上の津波が30分以内に到達する場所の中で、津波避難が困難な地域を事前避難対象地域に指定することを求めています。現在、各自治体は、臨時情報という不確かな情報を前に、地域指定の考え方の整理や、臨時情報発表時の対応の方向性について。苦慮しながら検討しています。中でも、海抜ゼロメートル地帯を抱える自治体は多くの悩みを抱えているようです。
海抜ゼロメートル地帯と輪中
濃尾平野や大阪平野をはじめ、南海トラフ地震の被災地には海抜ゼロメートル地帯が沿岸部に広がっています。海抜ゼロメートル地帯の多くは、干拓によって陸化された場所です。当初は塩田として使われ、その後、新田になり、さらに宅地や工業用地に変化してきました。土を上に盛る埋め立て地と異なり、干潮のときに遠浅の海に堤防を作って陸化したので、多くは海抜下にあります。さらに、戦後の工業化の中で地下水が汲み上げられ、地盤沈下した場所も多くあります。かつて、こういった場所は、輪中堤などで仕切られ、クラスター状になっていました。輪中地帯の生活は、自助、共助の手本でもあります。浸水時に備えて、各家では高盛り土した場所に水屋を作り、備蓄品を蓄え、屋根裏には避難用の船を用意していました。また、出水時には、地域総出で輪中堤を守っていました。
海抜ゼロメートル地帯の地震危険度
近年、輪中堤は道路などで分断され、海抜ゼロメートル地帯は、大規模な海岸堤防や河川堤防によって守られるようになりました。そして、常にポンプで排水が行われています。海抜ゼロメートル地帯は、洪水の危険度に加え、地盤が軟弱で地下水位面が浅いため、強い揺れや液状化も心配される場所です。中には、高知市のように、地震による地殻変動で地盤が沈下し、浸水する可能性が高い場所もあります。堤防が地震による強い揺れや液状化で崩れて沈下すれば、海水が浸入します。また、停電や燃料不足でポンプアップができなくなる可能性もあります。海抜ゼロメートル地帯は、堤防の一部でも損壊すれば、津波到達前に水が流入し、海水面と同じ高さになるまで水が浸入し続けます。
海抜ゼロメートル地帯も事前避難対象地域に
ガイドライン作成時には、津波を対象とした事前避難対象地域の指定を優先し、海抜ゼロメートル問題については地域の実情に応じて自治体が検討することになっていました。筆者が居住する愛知県は、濃尾平野西部に日本一広い海抜ゼロメートル地帯を抱えています。ここは、伊勢湾奥に立地するため、津波到達には1時間以上ありますが、堤防が損壊すれば、揺れの直後から海水が流れ込みます。残念ながら、この地域を守る堤防の耐震性の現状は芳しいものではなく、南海トラフ地震による強い揺れで損壊する可能性があります。このため、愛知県は、堤防が損壊した時に30分以内に30cm以上浸水する場所を事前避難対象地域の検討対象にする方針をまとめました。どの堤防が損壊するかは予想できないため、海岸や河川の堤防に沿った地域が対象になっています。今後、県下の市町村はこの方針に基づいた検討が必要になります。
長期湛水問題
海抜ゼロメートル地帯は、長期湛水の問題もあります。浸水した水を排水するには、堤防を仮閉めしてポンプアップするしかなく、長期間の湛水を覚悟する必要があります。61年前の1959年伊勢湾台風では、濃尾平野西部の海抜ゼロメートル地帯の水を引くのに3か月もかかりました。昨年の台風19号では、東京都の江東5区の住民に対して避難勧告を出すかどうかが話題になりました。日本の海抜ゼロメートル地帯は、三大湾を中心に面積は600km2弱にも及び、約400万人強もの住民が居住しています。長期湛水すれば、ライフラインも途絶します。これだけの人数を救出する手段はなく、食事や水を届けることは困難です。長期湛水の問題は、南海トラフ地震臨時情報発表時の問題にとどまらず、突発地震や高潮などの洪水でも共通します。海抜ゼロメートル地帯を守る社会インフラの強化や土地利用の問題も含め、国を挙げた検討が今後望まれます。(2020.2.17(月) 7:00 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授)
災害に対して人間のできることには限界があります。利便性を追求するあまり、災害時の被害が多様化している現実もあります。例えば1923年の関東大震災では問題にならなかったトイレについて阪神淡路大震災では災害関連死が発生する事態になりました。その原因は水洗化が急激に進んだためです。近代化した現代において発災の課題はさらに多様化していくと思われます。